富士山で高山病と低体温症で死にかけた話(昔ばなし)山で体の不調を我慢してはならない

今回は昔話ですが、登山をちゃんとを始める前に富士山の登山で死にかけた話をしたいと思います。昔ばなしです。
原因は高山病と低体温症でした。

ちなみに当時は子供(中学3年くらい?)で家族で富士山に行きました。
子供ながらに富士山とか高所で「やってはいけないこと」をすべてやって真っ当に死にかけてますので、よくネタとして話している内容です。

意外と実際に高山病で本当に危険な状態になった人の話ってないのかなと思います。

当時の症状や体調悪化の様子など思い出しながらストーリにして書いてみました。
実話ですが記憶があいまいな部分もあると思います。

最近、高所に行くことを意識してトレーニングをしていて、昔のことを思い出して記録しておきたいと思います。

やまにちは!まっつんです。ツイッターYoutubeもやってます。

中学生の私、富士登山で大はしゃぎして高山病になる

私が中学生の時の話です。私(姉)と弟と両親の家族4人での登山でした。

今も当時と変わらない性格なんですが、私はおバカで楽しいことがあるとテンションが上がって体全体で表現してしまうタイプです。
普段山登りはたまにしかしませんが、自然の中で遊んだりすることは好きで、体力も子供なりにはあった方なので普通に登山していれば問題ないレベルだったとは思います。

当時の計画はスバルライン終点の富士吉田の5合目(約2300m)から、8合目あたりの山小屋に泊まって、翌朝早朝に行動を開始して山頂で日の出を拝む、と言ったごくごく一般的で無理のない富士登山の計画でした。

車で5合目の登山口に到着して、すぐに行動を開始したのですが、私はテンションが上がっていて、全力で走り回っていました。
登山道から外れてその辺のザレを駆け上ったり、先に行っては戻ってきたり、なんて落ち着きおない子供だったのでしょう。

親に止められても気にせず走っていました。弟はおとなしく母と一緒に歩いていたようです。

天気が良く富士山に来れた喜びを全力で表していました。

家族みんなも周りのみんなもゆっくりゆっくり歩いていて、退屈だったので私は一人走って先に言ったり戻ったりして大はしゃぎでした。
そんな感じでバカみたいに喜んでいた私でしたが、だんだんと身体に異変が生じてきました。

数歩歩いただけで息が上がって頭がクラクラする

7合目を過ぎたあたりから徐々に体に異変を感じ始めました。

なんだか息が異常に上がって、それまでのように楽しく走り回れないのです。
でも座って少し休めばすぐに元に戻ります。しかし少し動いただけで、しんどい状態に戻ります。少しと言うのは数歩歩いただけとかそんな感じです。

私は早く先に進みたかったので、休んでは走って、休んでは走ってを繰り返していました。
高山病とかそういう問題ではなく、登山ではあまり良く無い行動の仕方の一つだと思います。

当然、家族のみんなよりは先に進むので、追いつかれる前に先に進んでは休みを繰り返していました。

しかし、だんだん体の様子は悪化していきました。

数歩歩いただけで頭が激しく痛む

私は我慢強い子でした。

自分で言うのも変ですが、”かまってちゃん”のくせに”カッコつけ”なので「大丈夫だよ!」と言ってなんでも我慢するタイプの子供でした。

7合目を超えると少し岩場のようなところに差し掛かるのですが、そのあたりではもはや数歩歩くと息切れと心臓のバクバクが激しくなり、おまけに頭が心臓の鼓動に合わせて「ズキンズキン」と脈打つように痛む、と言った状態になっていました。

それでも私は岩場を手足を使ってガーっと上がり、また座り込んで休憩し、を繰り返して進んでいきました。
頭の痛みはかなり不快でしたが、「我慢していれば治る」そう信じてずっと我慢していました。
そんなことはないのですが・・。

弱みを見せたくない私はずっと元気にふるまって、そんな調子で我慢に我慢を重ねて、その日は8合目あたりの山小屋(白雲荘かな?)に到着しました。

全く食欲が出ない

山小屋での夕食はなんかサバの缶詰と白米とノリ?とお漬物みたいな感じだったと思います。(曖昧)

私は頭も痛いし気分も悪いので数口食べただけで、それ以上は食べられませんでした。
夕食は発泡スチロールのお弁当みたいなのに入っていたので、勿体ないので後で食べよう、と言って頂いたような気がします。
何も喉を通らない感じがして、水も全然飲んでいませんでした。

高山病の予防には水を飲むことは重要ですよね。

山小屋はかなりの人が宿泊していて、左右に両親が寝て、弟と私が挟まれるように雑魚寝になりました。
山小屋の中はなんだか熱気が凄く感じて寝苦しくて、周りの人のイビキも激しかったのでとにかく不快でした。

私は外の空気を吸おうと思って階段を下りました。
小屋を出るころには頭が痛すぎて、小屋の外の手すりにうなだれながら月を眺めていたのを覚えています。
じっとしていると少しずつマシになってきますが動くと頭痛がするといった感じでした。

明るい月が出ていてあたりが良く見えたような記憶があります。
明るい月を見ても、ちっとも綺麗と思えなくて、しんどくて不快でした。

頭が痛くて、吐き気もひどくなっていました。月を見ながら「大丈夫、寝れば治る、大丈夫」
と思いながら、立っているのもつらいので布団に戻ることにしました。

小屋に入って少し階段を上がるのですが、一歩一歩と階段を上がるごとに頭がズキズキ痛くて、本当に辛かったのを覚えています。
廊下では何とか四つん這いになりながら自分の寝床まで進んで、布団の上に移動して横になりましたが全然寝つけずに、周りのイビキを聞きながら意識を手放せずにいました。

次の日、山小屋のみんなが行動を開始する朝

午前3時前くらいでしょうか、山小屋の朝ごはんの時間になります。
この小屋に泊まっている人はみんな山頂の日の出を目指して行動する予定の人ばかりです。

朝ごはんは全く喉を通りませんでしたが、頭痛は少し落ち着いていました。

少し歩くくらいでは大丈夫なくらいでした。
山小屋をでると登山道の横幅一杯に人が歩いていて、暗い夜道の黒い人だかりが不思議に思えましたが、みんなで山頂を目指すんだとワクワクしていました。

高山病に加え、低体温症を発症。意識が朦朧とし始める

夏とはいえ、富士山の上部の気温は低いです。
私たちも長袖の防寒具とカッパをそれぞれ持っていました。
私は自分のリュックにお菓子とカッパと飲み物だけを入れていました。

私以外の家族は防寒具を着ましたが、
私はバカなので「全然寒ない!なんも着いひん(着ない)くて大丈夫や!」と言って何も着ませんでした。
風は強くはなかったですが、少しあったような気がします。正直すごく寒いと感じていました。
強がる必要は全くなく、実際カッパを着なければならなかったと思います。

私は小学生生活では12月になっても半袖半パンに草履で登校したり、中学生になっても夏服で何月まで耐えられるかと12月まで半袖で行動していたり、と寒さは根性で耐えるぜ!と言う謎の自信を持っていました。
子供は風邪の子元気の子!では通用しないのが富士山です。ナメてはいけません…

歩き始めて少しするとまた頭が痛くなってきました。足も全然動きません。
ペースが上がらず体は温まらないので、すごく寒くて、でも「大丈夫」と言ったからには我慢したい、と言う謎の根性を発揮していました。

このあたりから私の状態はさらに悪化していきました。

9合目の鳥居手前で、目が見えなくなり耳も聞こえなくなってきた

そうして、激しい頭痛と吐き気、少し動くだけで口から出そうなくらいドキドキする心臓の鼓動、おまけに寒くて震えていたのですが、段々震えることもできなくなっていたようでした。
後から思えば低体温症になっていたと思います。

それでも私は寒いとは言わずずっと我慢していたのですが、口数が少なくなって弱っていく私を見た父親がこれはやばいと気付いて降りるぞ、と言い始めました。

弟と母はゆっくりゆっくりですが、前に進んでいます。あとから聞いたのですが、9合目の鳥居は超えていたそうで、2人は体調に変化もなく山頂に行けそうだったようです。

私の目にも鳥居は見えていました。月に照らされてボヤっと白く見えました。
でも遠いなあと思いながら見ていました。

私は体や足が全然動かなくなっていました。父親に何か話しかけられているのですが、なんだか理解できなかったです。
意識が朦朧としていたと思います。

街の夜景が目に見えているのですが、なんだか視点が合わなくて、涙で視界がにじんでいるようにボワワーっと大きな光の玉が沢山見えていました。
父の顔は全然見えなくて、父が私に語り掛けている言葉もなんとなく聞こえない感じがしました。

ふわふわして不思議な感覚でした。
私は「なんも見えへん、なんも聞こえへん」と、何度か訴えていました。

これは自分で覚えていますが、そもそも自分がどうなっているのかわかっておらず、ただ事実としてこの状況を口に出していました。

それを聞いて父が私の容態のヤバさに気付いて、私に動くなと言って母と弟に下山することを伝えに行きました。
そこからは殆ど記憶にないのですが、足は全然動かなくて、でも富士山の道はジャリジャリなので、父は私の手を引っ張って必死に引きずって降ろしたそうです。

周りは登山者ばかりの中、同ルートを下降していたので、不思議そうに見られていたそうです。

私は引きずり降ろされるのに抵抗するように踏ん張っていたような気がします。
心の底では帰りたくない、と思っていたような記憶があります。

そうやってすごいスピードで父親に引きずり降ろされて、昨晩寝ていた小屋に事情を説明して部屋に入れてもらって横になりました。
父が酸素ボンベを買ってきてくれて、私はそれをシューシュー吸っていました。

そうすると段々と意識が戻ってくるかのように、目が良く見えるようになってきて、横になりながら小屋の小窓から外を眺めていました。
雲海の上にオレンジ色の太陽が昇ってきて「あー日の出だ」となりました。
布団にくるまってずっとそうして横になっていたような気がします。

酸素を吸っているとどんどん元気になってきて、自分の状況を理解し始めました。
でも頭はあんまり働かなくて、何も考えていなかったのですが、太陽をじっと見つめていました。ちょっと悲しかったです。

私が「山頂に行けなかったけど、ここで見ても日の出は一緒やね」と言って、父が「そうやで」と言っていたのを覚えています。

下山路で無事下山

日の出してからしばらくしてから、下山することにしました。
下山するころには気温も上がっていて、体も布団で暖かくなって元気になっていました。ただ足や体は石のように重かったですが何とか歩くことができました。

食欲は全くなくて水も食べ物も口にはしていなかったと思います。
それでもだらだらと下山していきました。

下山中は頭が痛くなったりとか高山病や低体温症のような症状はありませんでしたがただただ体がだるかったのを覚えています。

後になって思えばこの時多分死にかけていたような気がします。
そして大人になってから登山をやるようになって、あの時は多分高山病の症状と低体温症だったのかなあ、なんて思いかえして自虐ネタとして話したりしているわけです。

山で絶対やってはいけないこと、それは「我慢」

今となってもこの当時の富士山での体験は忘れられません。
特に、目の前がボヤっとして朦朧としていた時は、なんだか気持ち良い気がして、不思議な感覚でした。
寒さもすっかり感じなくなっていましたし。

この時のことを思い出して意外と死ぬ瞬間って辛くないのかな、って思ったりします。

とはいえ、このような事態になった原因は私が「我慢しすぎた」ことにあります。

強がって自分の状況を一切見せないように、言わないようにと思って耐えていました。

我々家族の登山経験は豊富ではありませんでしたが、自然が好きな家族だったので簡単な山歩きやトレッキングなんかはよくやっていて、体力的には一般的に富士登山に問題のないもので、計画も無理のないものでした。

ただ私の行動、特に体調不良を我慢して悪化していったというのが、本当に良く無かったと思います。

IMGP9554

体調の変化を伝えることは「弱音」ではない、パーティメンバーに相談するべし

今、登山をするようになって思うのは、パーティメンバーの体調の変化は良くも悪くも絶対に知りたいことの一つです。

凍傷になる前にグローブを厚くする、風裏を探して体温を取り戻す。体調が悪ければ早めに幕営する。ダメだったら撤退するルートを模索する。
そういう判断をするためにも何か体調に異変がある場合その内容は共有しなければならないとつくづく思います。

当時もっと早くに「頭が痛い」とか「寒い」とかそういうことを私が伝えていればこんな事態にはならなかったと思います。
大事に至らなかったので今となっては自虐ネタとして話していますが、当時は本当にヤバかったと思います。

父は未だにこの時の話をするとき、本当に私が死ぬと思ったといいます。

山で体調の悪化を防ぐための対策はもちろん大事ですが、一番大事なのは「我慢しないこと」だと思います。

今となっては山の仲間に少しの異変でも相談するようにしています。

いかがだったでしょうか

高山病で重篤になった人の記録って意外とないのじゃないかなと思ってまとめてみました。

実際、当時私の体に何が起こっていたのかは正確にはわかりません。
多分、こうなんだろう、と言う推測で書いている部分もありますので、あくまで話のネタにでも。

皆さんも山でははしゃぎすぎず、我慢しすぎず、ご注意ください。

ちなみにこの時のことがきっかけで「私は標高が高いところには行けない」と思い込んでトラウマになっていましたが、当時の行動が悪かっただけでそこまで弱くない見たい(普通)です。

本当バカな子供でしたが、このころの体験が未だに頭にあって高所やそれ以外でも体調に対して慎重に考えられる、今の自分に繋がったと思います